暗くてなんぼ

引きこもりや鬱病を経験しても、人生なんとかなるという思いを込めて書きたいと思います。

ひきょうもの

貴方は「ひきょうもの」になったことがあるだろうか。「変な質問!”ひきょう者”ってなるとか、ならないってものじゃないでしょう?」と言う人もいるだろう。そしてそのような人々の中には、本当に公明正大に生きてきた人がいるのだろう。

 

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残念ながら、私はそうではない。
数度人生の中で「わたしは、卑怯なことをしそうになっている」と思いながら、その行為に及んだことがある。その経験は、今でも痛恨というか、なぜそうしないことを選ばなかったのか、と自己嫌悪に陥る原因となっている。

 

一つは職場での出来事だ。当時私は、あるIT企業でプロダクトマネージャーとして働いていた。ストレスの多い長時間の仕事で、自分の能力不足もあり、私は疲弊していた。そんな中、関連部署の女性と働く機会を得た。Aさんは、日独ハーフのトライリンガル(日本語、英語、独語)で、非常に仕事ができ性格もいい人だった。お互いアートに興味があったこともあり、私達はすぐ打ち解けた。

 

詳細は省くが、ある時私は、Aさんも関わるプロジェクトで大きなミスをしてしまった。そのことを上司に追求され、私は苦し紛れにAさんにも責任があるように報告してしまったのだ。その当時私は上司に疎まれており、レイオフの可能性もあって追い詰められていた。そんな時にミスをして、卑怯にもAさんにも罪を被せたのだ(今から考えると大馬鹿だった)。

 

そのことはAさんにも後で知れ、当然私達は疎遠となった(彼女も私を避けたし、私も彼女に顔向けが出来ず、謝ることもしなかった)。日本という共通項を持ち、趣味も合って、会社など関係なくいい友人になれたかもしれないAさん、そんな人を自分の「卑怯さ」で失ってしまったのだ...。

 

もう一つの経験は、違う職場(ここもIT企業)でのことだ。その企業の駐車場はいつでも混んでいて、しかも1台あたりのスペースが狭かった。始業時間間際に行くと、ほぼ車で埋まっているか、空きスペースにも隣の車がはみ出たりしていて、駐車が大変だった。その朝私は狭いスペースに、(いつものように)えいやっと自分の車を停めた。ガコッという音とともに、衝撃がハンドルに伝わった。「あ、やってしまった!」と思い、すぐ車外に出て見ると、私の車のバンパーはへこんでおり、隣の車のバンパーには擦った跡がついていた。

 

私は「どうしよう!」とうろたえた。辺りには誰もおらず、その車の主もさっぱりわからない。(こういう場合は、どうするんだっけ。連絡先のメモを相手の車のワイパーに挟んでおけばいいんだっけ?)と頭の中がグルグルして心臓がドキドキする。同時に(でもこの車も線ぎりぎりに停めていたんだ。私だけが悪いわけじゃない。保険料が上がるし、夫にも呆れられるだろう。傷だって、持ち主の保険で無料で直せるだろう)という気持ちも起こった。完全に見苦しい言い訳だ。突然(今、誰も見ていないし、誰もこのことを知らない..)という悪魔の囁きが聞こえた。次の瞬間、私は車を発進して、数ブロック離れた建物の駐車場へ向かっていた。完全に卑怯な行いだった。傷つけられた車のオーナーは、その後自分の車を見てどんなに気分を害したことだろう。顔は知らないとはいえ、同じ企業の社員から「当て逃げ」されたのだ。緑色の車の持ち主さん、本当にごめんなさい。

 

その場を取り繕うだけの、利己的で恥ずべき行為。それをしてしまった経験から、私は人がなぜ「他人に罪を着せたり」、「当て逃げ(ひいては、ひき逃げも?)」したりするのか、その心理がなんとなく分かるようになった。自分だけが悪いのではないという自己正当化、運が悪かったのだという自分勝手な解釈、が理解できるようになったのだ(全く自慢できることではないし、今なら違う行動が取れるだろう...と思う。ある時点から、私には「”天”にとっていいこと」が自分の行動の基準になったからだ。これについては別稿で書いてみたい。)

 

とにかく、私は今でも、他人を大きな声で糾弾するのに躊躇いを覚える。自分だって卑怯な部分があるのに、どうして他人の卑怯さを糾弾できようか。言いたいのは、卑怯なことをしてしまった人にしか、他の”卑怯者”の気持ちがわからないだろうのではないか、ということだ。(この文章を書いていて、ふと遠藤周作氏の小説「沈黙」の登場人物の一人であるキチジローを思い出した。)

 

うら寂しい、矮小で恥ずかしい自分...。自分の理想や信条を一時忘れて、その場の利益や体裁を優先させてしまった自分、本当は自分に非があるのに言い訳したり逆切れした自分...。思い出すだに顔から火がでそうになり、ワーッと叫びながら走り逃げたくなるような思い出の数々。

 

そういう経験が一片もない清廉潔白な人からみれば、「しょーもない奴!」の一言だろう。でも、卑怯なことをした自分、理想に合わないことをしてしまった自分をあえて認めて、反省した上で許すことは、他人を許すことにも繋がるのではないだろうか。

 

ただの馴れ合いや傷の舐めあいではなく、「平凡な人間である自分」を認めて断罪(判断)しないこと、しかし、同じ失敗をしないよう誓うことかもしれない。


他人に優しい人間でありたい、と心から思う。そして自分をも大事にできる人間でありたいと思うし、これを読んでくださっている方々にもそうしてほしい。