暗くてなんぼ

引きこもりや鬱病を経験しても、人生なんとかなるという思いを込めて書きたいと思います。

新型コロナと引き篭もり

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コロナ禍で「国民総擬似引き篭り」のような状態となり、以前から引き篭っていた人々は、気が楽になったかと思いきや、却ってストレスが増えた人もいるという。

 

理由の一つは、他の家族と家で過ごす時間の長時間化。在宅勤務や外出自粛中の家族とのニアミスは、ストレスが溜まるに違いない(親子関係が悪い人々にとってはなおさらだ)。また、家族(特に親)がコロナの影響で失職の危機にあれば、引き篭もりの子供に対する風当たりは強くならざるを得ないだろう。

 

私も(その昔)不登校気味だった時は、父と極力顔を合わさないようにしていた。また、近所の人々の目に触れないように、ひっそりと暮らしていた。近所の目といえば、このコロナ禍で、近隣住人が日中家に居るようになり、余計外に出にくくなった引き篭もり諸氏も居るらしい(これは正直、致し方がないような‥)。

 

サポートグループなどの会がキャンセルされ、悩みを打ち明ける場所が少なくなっているという。ネットでの交流もさることながら、対面でのコミュニケーションでのみ癒される部分もあるだろう。自分の話を真摯に聞いてくれる人々、同じ悩みや苦しさを分かち合える人々との触れ合いは何にも変えがたい。

 

さて、私の居る国では、「引き篭もり」(という人々も居るのだろうが)が社会問題としてクローズアップされることはない。法を犯していないのだから、何をやろうと個人の自由、と考えられているからだ。(これほど「人目」を気にしない国も珍しいかもしれない。ホームレスだって堂々としている。)

 

私もこの国の文化に染まっているのかもしれないが、「引きこもって何が悪いの!?」と思ってしまう。各家庭のお金と方針で、そのメンバーが自宅から出ずに生活している。一体何が問題なのだろうか。

 

「将来生活保護になる人が増えそうだから?」”ベーシックインカム”が各国で検討される現在、日本ような国なら、富の再配分を工夫すれば、引き篭もりの人々の生活費位カバーできるのではないだろうか。

 

「引きこもりの中で精神を病んでいる人は、社会で問題を起こしそうだから?」そういう例もあるのかもしれないが、統計的に見ると、引き篭もりの人々の犯罪率は健常な人々より少ないそうだ。

 

精神を病んでいる(鬱病やパニック障害等)引きこもりは、確かに少なくないだろう(一説によれば約半数はそうだという)。しかし、その中で「暴力的な傾向のある人々」(それも家族以外に暴力が及ぶ人)は、一体どの位いるのか。

自分自身もそうだったし、引きこもり経験のある知人を思い浮かべると、皆過敏で、内向的。鬱傾向があり、他罰よりも自罰的(自虐・自傷行為等)な人々が多い気がするのだ。

 

引き篭りが問題になるのは、「本人が苦しいと感じている」場合だ。でもその苦しさってよーく見ると一体何なのだろう? 例えば、私が不登校気味だった頃の一番の悩みは、「留年するかも」、「このままではどこの大学にも入れないかも」という不安だった。それは脳内で「人生の落伍者となってしまう」、「人並みの人生を送れなくなる」に自動変換され、その恐怖に立ちすくみ余計に何もできないまま日が過ぎていくという有様だった。

今から考えると、どうして「大学に入れないことが=人生の落伍」なのか意味不明だが、当時は超進学校に行っていたので、本気でそう思い込んでいた(若さの単純思考って恐ろしい)。また「”人並みの人生”って一体何!?”」と今なら思えるが、当時はそういう「呪縛」にがんじがらめになっていた。当時から現在に到るまで、日本式の”人並みの人生”なんて送っていないが、結構ハッピーだ。強がりではなく、日本式の「人並み」なんてxxくらえだ。ましてや、「近所の人々の目」なんてどーでもいいものだ(断言する)。近所の人々が、貴方の生活の面倒を見てくれているわけじゃない。「偏見のこもった目」で見る暇人達は、こっちから無視!で正解なのだ。

 

「憲法で定められた勤労の義務を怠っている」。これには一理あるが、それは現在家族の誰かが「代理でやってくれている」ので一旦横に置いておこう。

 

もし私が今、あの引きこもりの高校時代に戻るとしたら何をするか。まずは、あの高校を退学して、通信の高校に転入するか、大検を受ける。その後、もっと風通しのいい大学を目指すだろう。そして日本を脱出する(実際、この二つは実行した)。

 

もし(日本の)会社に入った後で精神を病んで引きこもったら‥。まずは病院に行って投薬治療を受ける、そしてカウンセリングを受ける。なかなか治らなければ、障害者手帳を取得する。とにかくできるだけ休養して、精神の健康を取り戻すのが先決だ。精神を病んだまま社会生活を続けるのは、足が折れているのにマラソンを走るが如くだ。

 

もし精神の健康が回復したら、必死で在宅で働ける仕事の技術を身につける。自分の適性を考えると、翻訳やアプリ開発、ウェブ関連の仕事を目指すと思う。また、(私にはそういう才能はないが)経済や財政に興味がある(または単にお金が大好き)人なら、デイトレーダーを、そして細かいことを精査するのが苦にならない人ならソフトのQA(テスター)になれるかもしれない。また、人と話すことが苦にならなければ電話でのサポート業務、漫画が描けるのならデジタル作画を学んで、漫画家のリモートアシスタントになることも可能だろう。今は、私が引き篭もっていた時代と違い、インターネットという強力な味方がいるのだ。それを使わない手はない。

 

ベーシックインカムの実現を待つのもいいが、自分で食い扶持を(最初はお小遣い程度でも)稼ぎ出せるようになれば、「引き篭もり」ではなく、一挙に「在宅勤務の人」になれるのだ。そうなれば、堂々と胸を張って家に居られるし、ご近所さんにだって「在宅で働いていますから〜」としらっと言えるのだ。

 

(昔の私のように)自責の念、自己嫌悪、敗北感、絶望、親への恨みや申し訳なさ、無気力、無力感、将来への不安、ネガティブ思考、その「沼」にどっぷり浸かって、もがいている人々が少なからずいると思う。それが引き篭もり当事者の一番の「辛さ」なのだと思う。そこから少しずつでも這い出てくる人が増えれば、と心から思う。

 

貴方は、生きていることだけで価値がある。その存在だけで、尊いものだ。自分を見捨ててはいけない。病気なら治そう。底を打ったら、あとは一歩一歩這い上がろう。

 

姉の自殺未遂

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その日のことは今でもよく覚えている。姉が15歳、私が11歳の時のことだ。

 

入院した姉を見舞いに、両親と病院へ行った。姉の救急搬送の翌日だったと思う。ベッドに手足を縛り付けられた姉が、意識不明のまま体をクネらせていた。浴衣ははだけ、少しふくらんだ胸と淡い恥毛が時々見えていて私はドキッとした。動物のような声を上げながらのたうつ彼女の姿に、私は「何か大変なことが起こった」ことを直観した。ただただ涙が止まらず、私は母に抱えられるようにして病室を出た。父も一緒にいたが、現実を否定するかのように振舞っていた。

 

姉はその時中学三年生。小さい頃から虚弱で中学になっても不登校気味だった。その日も私は、一人で朝食を取り早々に学校へ出かけた。母も正社員として働いており、出勤の準備をしていた。姉は起きて来ず、母は「いつものことだし、このまま寝かせておこうかしら」と思いながらも、姉の部屋越しに声をかけてみた。返事はなく、大きな鼾だけが聞こえてきたという。胸騒ぎを覚えた母は(母は非常に勘がいい)ドアを開けようとしたが、鍵がかかっていた。三分後、母は外階段と屋根をつたって姉の部屋の外側に行き、窓ガラスを割って(!)室内に入ったという。

 

救急車が呼ばれ、姉は緊急入院した。胃洗浄を受けたに後も、姉は意識不明の重体だった。「あと一時間遅かったら助からなかったでしょう。心臓が強かったのが幸いした」と医師に言われたという。

 

病院は「完全看護」を謳っていたが、その手当はおよそ満足のいくものではなかった。今のように不登校や心の問題が認知されていない時代で、病院のスタッフの対応も冷ややかで、「嫌でも死んでいく人々がいるのに、若いのに自殺未遂なんか起こして、迷惑な子とその親」という視線に母は曝された。

 

意識不明のままベッドに拘束され、十分な体位交換を受けなかった姉の片足は、退院時には完全に麻痺していた。その治療には一年がかかったが、病院からは一切の謝罪も保障もなかった(今なら訴訟沙汰になるような案件だ)。

 

退院した姉は以前より一段と細くなり、平均身長なのに体重はわずか35キロになっていた。そのため、小柄な母でも姉を抱えて入浴させることができたのだが‥。父はまったく何も起こらなかったような振りをして、子供帰りした姉とその世話を献身的にする母を遠巻きに見ているだけだった。

 

私もある意味傍観者だった。中学受験の準備や部活もあり、自分のことを淡々とやっていたような気がする。姉は母以外には心を開かず、母もほぼ寝たきりの姉の世話に手いっぱいで、私は寂しいと思うより「非常時なのでこれしかない」と

姉の回復を見守った。

 

しばらくたってから、母から姉が自殺未遂をしたこと、そのために入院、リハビリとなったことを聞いた。姉は、父が海外赴任時に使い残した睡眠薬を、丸々一瓶分飲み下したのだ。(ある時父の旅行鞄から見つけてから、ずっと隠し持っていたらしい。)

 

昔から喘息で体が弱く、勉強も運動も妹のようにできないことで父から邪険に扱われてきた姉。不登校気味でクラスでも浮いてしまい、無視されいじめられていた姉。当時から「仏像の写真集」を見ることだけを心の慰めにしていた姉。15歳で命を絶とうと思うまで追い詰められていたことを 家族の誰もが解っていなかった。彼女は誰にもその悩みを言えず(言っても無駄だと諦め)、独り絶望していたのだ。なんて悲しいことだろう。

 

結論から言えば、姉は生き残った。その後長い時間をかけて回復し、現在彼女は、非常に安定した男性と幸福な生活を送っている。

 

私達家族は、今でも「あの日」のことを語らない。姉自身も一度もそのことに触れたことはなく、亡くなった父もまるで事故だったかのように何も言わなかった。母でさえ「あの時のことをもう言うのはやめましょう。もう過去のことなのだから」という態度だ。

 

でも私にとっては‥、忘れようにも忘れられない日だ。その日を境に私の人生は変わってしまった。表面を取り繕って保っていた「家族像」の嘘が一挙に砕かれた日というか(イメージ的には9/11で崩れ落ちたツインタワー)、「一応OK」と思っていた家庭は、全然OKではなかったということを脳天への一撃とともに知らされた日という感じだ。

 

誰のせいというより、家族全員のせいで起こったことで、私も同罪だった。窮地にいる姉を横目に「しめしめ、私は優秀ないいい子をやっていよう」と考えていた自分の愚かさと狡さ、思いやりのなさ‥。あの日以来、私はずっと「罪悪感」を抱えて生きている。

 

姉があの時死なないで良かった、と心から思う。もしあのまま逝ってしまっていたら、うちの家族は空中分解するところだっただろう。しかしそんなことより、ただただ姉という人間が、この世に生き残ったことがありがたいと感じている。彼女がこの世に存在すること自体がいいことだと思う(それは、他の全ての生きとし生けるものに当てはまることだ)。

 

姉は私と心理的な距離をとっているように感じるが、私は姉が人生の最後まで健康・幸福であるよう(陰ながら)サポートしていきたいと思う(特に義兄がもし先立った場合は尚更だ)。家族を安寧に「送り出す」のが、私の人生の役目の一つだと感じている。

美容整形について(1)

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美容


最初に告白してしまおう。私は美容整形の経験者だ。鼻尖形成(びせんけいせい)と太腿の脂肪吸引をやったことがある。鼻尖形成とは、鼻先の軟骨を縫い合わせて尖らる施術で、脂肪吸引はその名の通りである。

私は小さい頃から鼻の穴がまん丸なことと、足が太いことが大きなコンプレックスだった。二重のぱっちりした目で、赤ちゃんの頃から可愛いと言われてきたのだが(勿論お世辞もあるだろう)、自分的には鼻だけが「残念」だったのだ。母はすっとした鼻、父も大きいが通った鼻であり、私も二人に似て鼻梁だけは高めだった。だから幼児の頃から鏡を見ては、鼻をつまんで「あーあこうだったらいいのにな」と思っていた。(洗濯バサミをつけたこともあったが、痛いだけだった。笑)

足が太いのは母譲りだ。小1からバレエを習っていたのに、これは決定的ハンディだった。バレエのおかげで筋肉質ではあったが、その太さ故についたあだ名の一つが「大(根)子ちゃん」(泣)。小学校卒業時のサイン帳に「中学に行っても元気でね!」という文字の横に大きな大根が描かれていたことを今でも悲しく思い出す。

ということで、思春期を過ぎた頃から「鼻を整形したい」と密かに思い、高校卒業時に老舗と呼ばれる大手美容外科で実行した。幸い私の悩みを知る母は理解があり、それを許してくれた。韓国ではないが、母のカンパを受けて私はプロテーゼを入れる施術を受けた。鼻先は整ったものの、元から低くはなかった鼻はやや不自然な高さとなり、のちのち後悔することになった。見る人が見れば判ってしまう「おでこから生えた」鼻だったと思う。

プロテーゼが触ると動くようになったのと後悔が募り、お金を貯めて30代で再手術をした。プロテーゼの抜去と鼻尖形成である。当時で50万円弱掛った。リサーチにリサーチを重ね、鼻尖が上手いという評判のクリニックで手術を受け、今度は自然で納得の行く仕上がりとなった。決して女優さんのような完璧な鼻になったわけではない。鼻の穴が円から楕円になり、鼻先の丸みがなくなったというだけだ。それでも私にとっては「これでよし!」という気持ちになれる出来だった。(ちなみにプロテーゼと違い、これには今のところ”劣化”がない。)

脂肪吸引はやはり30代で、バレエのレッスンを再開した際、自分の太い脚(太腿の間がなくくっついている)が教室の鏡に映る度に落ち込むようになって決心した。これは在住国で受けたのだが、60万円程度かかったと記憶している。手術の前に医師から「脂肪はある程度取れるが、皮膚がたるんだり、シワになる可能性が高い」と注意されたが、「それでもいいです」と、施術を受けた。この時は、ダウンタイムというか手術後の痛みが半端なく、トイレに行くのも一苦労で「もう二度とやるまい」と心に誓った。(当時は吸引用の管・カニューレも太かったから痛みも強かったのだろう。現在は緩和されているかもしれない。) 結果、太腿の間に隙間ができてすっきりとしたが、少しのたるみとお尻の後ろに段(?)ができてしまった。でもこれでやっと自分的に「許容できる」足となった。

美容整形をする人は、「ある程度整った容姿の人が多い」と言われる。多分「ここさえ直せば、満足できるのに...」という強迫的思考の持ち主なのだろう。私も容姿に関しては、奇妙な完璧主義者だ。気になる箇所が「許せない」という気持ちになってしまうのだ。「ありのままの自分を受け入れよう」「自分の欠点を愛そう」と多数のセルフヘルプの本に書いてある。「まったくもってその通り!」と思うのに、自分自身の”欠点”が許せず、そればかりが気になってしまう(多分それは精神の歪みからくる狭量と異常な拘りだ。)他にも私には、ある意味異常な”拘り”がある:159cmで45キロ以上になるのが「許せない」。白髪を染めないのは「許せない」。二重顎になるのは「許せない」。(自分の)歯並びが悪いのは「許せない」。くだらない拘りだが、しょうがない。

一方、他人の容姿に関してはまぁ寛容だと思う。在住国では太っているのがデフォなので、慣れもある。肥満の人を見ても、「フツーの〇〇人ね」としか思わない。歯並びが悪い人に会っても「あぁ、日本(またはヨーロッパ)の人なのね」と思う程度だ。在住国で忌み嫌われている八重歯も、中学の頃好きだった男子が「八重歯のハンサム」だったので気にならない(黄ばんでいたり、黒ずんでいたり、欠損しているのは嫌だけど)。

自分の「許せない部分」を直す手立てがある、だから美容整形に踏み切るのだ。他人を直そうとは思わないが、自分のことは財力・技術がある限りフィックスしたくなる。結論から言えば私は手術をしてよかった、と感じている。「許せない部分」が消え、それに対して思い煩うことがなくなったから。数百万円(歯列矯正も含め)は、まったく惜しくない出費だった。

さて、私はこれからも美容整形を受け続けていくのか?未来のことは分からないが、多分「プチ整形(ボトックス注射等)」に留まるだろう。容姿が売り物の芸能人ではないし、痛いのは避けたい。年を取ることに伴う劣化は「しょうがない」と受け入れているし。また、何より「ま、これでOK」と感じているからだ。(さて、次回は「整形を繰り返す人」について書きたいと思う。)

ひきょうもの

貴方は「ひきょうもの」になったことがあるだろうか。「変な質問!”ひきょう者”ってなるとか、ならないってものじゃないでしょう?」と言う人もいるだろう。そしてそのような人々の中には、本当に公明正大に生きてきた人がいるのだろう。

 

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残念ながら、私はそうではない。
数度人生の中で「わたしは、卑怯なことをしそうになっている」と思いながら、その行為に及んだことがある。その経験は、今でも痛恨というか、なぜそうしないことを選ばなかったのか、と自己嫌悪に陥る原因となっている。

 

一つは職場での出来事だ。当時私は、あるIT企業でプロダクトマネージャーとして働いていた。ストレスの多い長時間の仕事で、自分の能力不足もあり、私は疲弊していた。そんな中、関連部署の女性と働く機会を得た。Aさんは、日独ハーフのトライリンガル(日本語、英語、独語)で、非常に仕事ができ性格もいい人だった。お互いアートに興味があったこともあり、私達はすぐ打ち解けた。

 

詳細は省くが、ある時私は、Aさんも関わるプロジェクトで大きなミスをしてしまった。そのことを上司に追求され、私は苦し紛れにAさんにも責任があるように報告してしまったのだ。その当時私は上司に疎まれており、レイオフの可能性もあって追い詰められていた。そんな時にミスをして、卑怯にもAさんにも罪を被せたのだ(今から考えると大馬鹿だった)。

 

そのことはAさんにも後で知れ、当然私達は疎遠となった(彼女も私を避けたし、私も彼女に顔向けが出来ず、謝ることもしなかった)。日本という共通項を持ち、趣味も合って、会社など関係なくいい友人になれたかもしれないAさん、そんな人を自分の「卑怯さ」で失ってしまったのだ...。

 

もう一つの経験は、違う職場(ここもIT企業)でのことだ。その企業の駐車場はいつでも混んでいて、しかも1台あたりのスペースが狭かった。始業時間間際に行くと、ほぼ車で埋まっているか、空きスペースにも隣の車がはみ出たりしていて、駐車が大変だった。その朝私は狭いスペースに、(いつものように)えいやっと自分の車を停めた。ガコッという音とともに、衝撃がハンドルに伝わった。「あ、やってしまった!」と思い、すぐ車外に出て見ると、私の車のバンパーはへこんでおり、隣の車のバンパーには擦った跡がついていた。

 

私は「どうしよう!」とうろたえた。辺りには誰もおらず、その車の主もさっぱりわからない。(こういう場合は、どうするんだっけ。連絡先のメモを相手の車のワイパーに挟んでおけばいいんだっけ?)と頭の中がグルグルして心臓がドキドキする。同時に(でもこの車も線ぎりぎりに停めていたんだ。私だけが悪いわけじゃない。保険料が上がるし、夫にも呆れられるだろう。傷だって、持ち主の保険で無料で直せるだろう)という気持ちも起こった。完全に見苦しい言い訳だ。突然(今、誰も見ていないし、誰もこのことを知らない..)という悪魔の囁きが聞こえた。次の瞬間、私は車を発進して、数ブロック離れた建物の駐車場へ向かっていた。完全に卑怯な行いだった。傷つけられた車のオーナーは、その後自分の車を見てどんなに気分を害したことだろう。顔は知らないとはいえ、同じ企業の社員から「当て逃げ」されたのだ。緑色の車の持ち主さん、本当にごめんなさい。

 

その場を取り繕うだけの、利己的で恥ずべき行為。それをしてしまった経験から、私は人がなぜ「他人に罪を着せたり」、「当て逃げ(ひいては、ひき逃げも?)」したりするのか、その心理がなんとなく分かるようになった。自分だけが悪いのではないという自己正当化、運が悪かったのだという自分勝手な解釈、が理解できるようになったのだ(全く自慢できることではないし、今なら違う行動が取れるだろう...と思う。ある時点から、私には「”天”にとっていいこと」が自分の行動の基準になったからだ。これについては別稿で書いてみたい。)

 

とにかく、私は今でも、他人を大きな声で糾弾するのに躊躇いを覚える。自分だって卑怯な部分があるのに、どうして他人の卑怯さを糾弾できようか。言いたいのは、卑怯なことをしてしまった人にしか、他の”卑怯者”の気持ちがわからないだろうのではないか、ということだ。(この文章を書いていて、ふと遠藤周作氏の小説「沈黙」の登場人物の一人であるキチジローを思い出した。)

 

うら寂しい、矮小で恥ずかしい自分...。自分の理想や信条を一時忘れて、その場の利益や体裁を優先させてしまった自分、本当は自分に非があるのに言い訳したり逆切れした自分...。思い出すだに顔から火がでそうになり、ワーッと叫びながら走り逃げたくなるような思い出の数々。

 

そういう経験が一片もない清廉潔白な人からみれば、「しょーもない奴!」の一言だろう。でも、卑怯なことをした自分、理想に合わないことをしてしまった自分をあえて認めて、反省した上で許すことは、他人を許すことにも繋がるのではないだろうか。

 

ただの馴れ合いや傷の舐めあいではなく、「平凡な人間である自分」を認めて断罪(判断)しないこと、しかし、同じ失敗をしないよう誓うことかもしれない。


他人に優しい人間でありたい、と心から思う。そして自分をも大事にできる人間でありたいと思うし、これを読んでくださっている方々にもそうしてほしい。

引っ掻く・剥がす

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中学3年生頃から高校生の半ばまで、いつも首に湿疹ができていた。というより、原因不明の痒みで首を掻き毟(むし)って、いつも赤く爛れていたのだ。

皮膚科に行くと、アトピー性皮膚炎を疑われステロイド外用薬を処方されたが、それをつけても良くならなかった。

 

ストレスがあると無意識に首を掻いてしまい、掻き出すと余計痒くなって、また掻き毟るという悪循環。家族から「掻いちゃだめ。ひどくなるよ」と言われて、我慢しようと努力したがだめだった。

 

そのうち担任の先生からも「Kさんの首、どうしたんですか?何かの皮膚病なんですか」と怪訝な顔をされ、本当に恥ずかしかった(「伝染性」かどうかを気にしているようだった。)

 

どうやっても治らなかった「湿疹」も、高校を卒業した途端パタッと治ってしまった。単に「無精に痒くなる」ことが少なくなったからだ。それ以来、目立つような皮膚の異常はなくなったが、今でもストレスがあると、瘡蓋をはがしてしまったり、吹き出物を無理やり潰したりしてしまう。

 

夫や母に注意されるので、気をつけるようにしているのだが、ついついやってしまうのだ。もしかしたら遺伝的な要素があるのかもしれない。思えば、父は耳かきが大好きで、しょっちゅう血がでるまで耳をかいていた。姉も、成人してからストレス性の湿疹で手足をかき壊していた時期があった。

 

唯一この問題のない母は「掻くのを我慢したら?」と明るく言うのだが、それは不眠症の人に「もっと寝るようにしたら?」とか過食症の人に「食べなければいいのに」と言うようなものだ。母は、自分を醜くしてまでもやってしまうあの「禁断の快感(?)と後悔」を知らないのだ。

 

痒みは痛みの亜種だという研究者もいる。リストカットなどと同様に掻破(掻くこと)も、自己破壊的な行為で、快感と精神の安定をもたらす”異常”行動なのかもしれない。

 

本当は「掻きむしりたい!」と思ったと同時に、輪ゴムで自分の腕をパチンと弾くとか、数を数える、水を飲みに行く等、気を外らせることをするのがいいのだろう。それはわかっている、重々わかっているのだが...。

 

父の表情

 

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あるサイコセラピストの女性の本に「自分の表情や声に気をつけよう。声や顔の表情が、冷たかったり、きつかったりしていないかどうか意識しよう」という言葉があり、なるほどと思ったことがある。

 

私の育った家庭では、四六時中、自分の不機嫌さを撒き散らしている人がいた。父である。

 

父はいつも苦虫を噛み潰したような顔をしていた。笑顔になることは稀で、その笑いはほとんど嘲笑・冷笑の類だった。家の中は、常に父の機嫌を伺いピリピリ、びくびくしており、薄氷を踏むような毎日を送っていた。

 

世の中のお父さん達というのは、皆仕事のストレスで機嫌が悪く家族にあたるものだと思っていたので(!)、母が大きくなってきた私たちに父の愚痴をこぼし始め、友人のお父さん達が皆そうではないことを知った時は、少なからぬショックを受けたものだ。

 

父は、勤めに出ていた母の帰りが遅いと文句を言い、私や姉が長電話だと怒鳴り、近所の人々は低脳ばかりだと(夕食のテーブルで)貶し、母の親族が来れば凄い形相で、車を急発進させどこかに行ってしまったりした。家でだけではなく、外出中も店のサービスが悪いと、罵ったり席を突然立ったりした。会社でも嫌われ者で有名だったようで、会社の運動会で他のおじさん達が、私たちが誰の子供かがわかると突然、冷たい顔で「xxさんのお子さんなんだ」と表情を曇らせるのを何度も見た(子供ながらに悲しかった)。

 

私と姉は、父の帰宅を知らせる車の音が聞こえると、子供部屋へ逃げ込みなるべく父とは会わないようにしていた。いつしか私は父の顔をまともに見られなくなった。中学・高校、と父との接触はなるべく最少にするよう最大限の努力を払った。

 

それほど「超不機嫌な父の顔」を見るのが苦痛だったのである。家族のメンバーの表情や感情は、他のメンバーになみなみならぬ影響を与えると思う。一人、不機嫌で感情を外に向け爆発させる人がいると、家族は皆その「暴風雨」に曝され、見えない傷を受ける。それは毎日、毎年、ずーっと続くのだ。

 

私は今でも「安定した平和な家庭生活」というものに完全に慣れていない。独立するまで、寂しさ、苦痛や不安が「常態」だったので、それがない生活というものをどう受け止めたらいいのか分からないのだ。「こんな幸福・平和は長く続かないのではないか」とドキドキし、何か悪いことが起こると「そう、人生ってこういうものだ」とどこか安心したりするのである。

 

父と手をつないだり、肩車をされたり、抱擁されたり、などということはまったく記憶にない(もしそのようなことがあったとしても、幼児の頃であろう。)父に触れようと思ったことは物心ついてからほとんどない。彼は私にとって恐れの対象でしかなかったからだ。

 

17歳の時に、母方の祖父が亡くなり、その葬儀の帰りに電車の中で、たまたま父の隣に座ってしまい腕が接触したことがある。正直、ぞっとしてしまい、(速く駅につかないか)とばかり願ったことを思い出す。

 

そのため、父が会社を引退して母への態度が和らぎ、ニコニコするようになっても、私は「人間の本性はそんなに変わらない」と心に鎧をつけ、彼との接触は最低限に保ってきた

 

数年前に、父は脳梗塞に倒れた。父が母や看護の人々、医師たちに「本当にありがとう」と柔和な表情で接する様子を見て、びっくりしてしまった。病院では誰もが「本当に優しいお父さん、旦那さんですね」と口にするので、(これも脳梗塞の後遺症!?)と疑ってしまったりした。

 

弱い犬が他の犬たちに歯を剥き、吠え立てるように、父も自分の弱さや自己嫌悪を他を攻撃することで隠していたのだろう。その鎧がすべて剥がされた時、彼自身のvulnerbleで善良な部分がやっと顔を出したのだ。

 

父が死ぬ数ヶ月前に、私は父の手を(40年ぶりに)握りさすった。なぜか心からそうしたくなり、自然とそうしたのだ。2回目の誤嚥性肺炎を起こした後、医師と相談の上で経管栄養のチューブが父の鼻から抜かれた。本人も家族もそれでほっとした。残された時間は1ヶ月余りと分かっていたが。

 

エンゼルケアを受け、霊安室に置かれた父の顔はとてもいい笑顔だった。私が見た中で最高の柔和な笑顔をたたえていた。顔を触るととても冷たかった。「すみません、お口が開いてしまうので、白い布でお顔を巻かせてもらいました」と看護士さんが言った。「まるでおたふく風邪にかかった人みたい」と私が冗談を言うと、母は泣きながら笑った。


不謹慎かとも思ったが、思わず携帯でその顔を撮影した。ずっとこの笑顔を忘れずに痛かったからだ。「お父さん、あちらの世界でゆっくりしてね」と語りかけつつ、「こんな笑顔を子供の時も見たかったよ」と心の中で呟いた。

 

何をやっても罪悪感

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鬱の症状の一つに「理由のない罪悪感」がある。何をしても、自分は悪いことをしている、という気分が付き纏うのだ。

 

例えば仕事で上司に褒められると、嬉しいと思う反面、穴に入って隠れてしまいたいような気持ちになる。自分は賞賛に値しない、この人は自分を買いかぶっている、と感じるからだ。

 

また、誰かに何かをしてあげたりして「ありがとう!」と言われても、どうもバツが悪い。「お前は、いい人ぶってこの人を欺いているんだ、この偽善者!」というつぶやきが頭の中にこだまする(気がする)からだ。

 

もちろん、人から批判されたり貶されたりすると傷つく(普通の人よりもっと傷つきやすいかも)。しかし、褒められたり感謝されたりしても「罪悪感」を感じてしまう…。どっちにしろlose-lose で can’t win (勝ち目なし)、というところだ。

 

一度非常に思いやりのある上司に、この気持ちを正直に話してみた。上司はじっと聞いてくれて後で「じゃぁ、僕は...どうしたらいいのかな?」と言った。「ことさら褒めずに、ただ "Good job!" とか"Well done" とか言ってくれたら嬉しい」と答えたら、ちょっと首をかしげて困ったように微笑んだ。

 

「認知療法」をご存知だろうか。心理療法の一つで、客観的に物事を再認識することで気分障害を解消するという、鬱病に効果があるとされるものだ。

 

この療法のアプローチを知り、実践するようになってから、私の心はかなり軽くなった。 ツボは、自分の認知の歪みに気づいて意識的にそれを打ち消す、ということだ。これには”反復練習”が必要で、私は今でも「(理由のない)罪悪感を感じている自分の認知の歪み」を日々”矯正”するようにしている。


例えば、「自分は賞賛に値しない」という考えには、「この人は、(どうであれ)私がした事についてポジティブな評価をしてくれた。それ自体は事実だ」とか、「確かにこの人は、自分を本来より良く見てくれているもしれない。でも、そう考えてくれる理由となったことを私はしたのだ」と自分に言い聞かせる。

 

「偽善で人をだましている!」という認知の歪みには、「よーく考えてみよう。真摯にその人の為になりたいと思ったんじゃないか?」とか、「多少、いいことをしていい気持ちになりたいという動機があったとしても、結果としてその人が喜んでくれたのなら、よしとすればいいのでは?」と自分に向かって語りかける。

 

”客観的な見方をする第三者”のような存在を頭に描いて、語りかけるのがコツのようだだ。これで、隠れてしまいたいような罪悪感がかなり薄まる。

 

「歪んだ認知と罪悪感」は自分の行動を制限し、麻痺させてしまう神経毒(?)のようなものだ。これに囚われると、心が(羞恥と罪悪感で)麻痺して何も行動できなくなってしまう。その毒を消す、少なくとも薄める方法を身につけることは、生きやすさに繋がると確信している。