暗くてなんぼ

引きこもりや鬱病を経験しても、人生なんとかなるという思いを込めて書きたいと思います。

父の表情

 

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あるサイコセラピストの女性の本に「自分の表情や声に気をつけよう。声や顔の表情が、冷たかったり、きつかったりしていないかどうか意識しよう」という言葉があり、なるほどと思ったことがある。

 

私の育った家庭では、四六時中、自分の不機嫌さを撒き散らしている人がいた。父である。

 

父はいつも苦虫を噛み潰したような顔をしていた。笑顔になることは稀で、その笑いはほとんど嘲笑・冷笑の類だった。家の中は、常に父の機嫌を伺いピリピリ、びくびくしており、薄氷を踏むような毎日を送っていた。

 

世の中のお父さん達というのは、皆仕事のストレスで機嫌が悪く家族にあたるものだと思っていたので(!)、母が大きくなってきた私たちに父の愚痴をこぼし始め、友人のお父さん達が皆そうではないことを知った時は、少なからぬショックを受けたものだ。

 

父は、勤めに出ていた母の帰りが遅いと文句を言い、私や姉が長電話だと怒鳴り、近所の人々は低脳ばかりだと(夕食のテーブルで)貶し、母の親族が来れば凄い形相で、車を急発進させどこかに行ってしまったりした。家でだけではなく、外出中も店のサービスが悪いと、罵ったり席を突然立ったりした。会社でも嫌われ者で有名だったようで、会社の運動会で他のおじさん達が、私たちが誰の子供かがわかると突然、冷たい顔で「xxさんのお子さんなんだ」と表情を曇らせるのを何度も見た(子供ながらに悲しかった)。

 

私と姉は、父の帰宅を知らせる車の音が聞こえると、子供部屋へ逃げ込みなるべく父とは会わないようにしていた。いつしか私は父の顔をまともに見られなくなった。中学・高校、と父との接触はなるべく最少にするよう最大限の努力を払った。

 

それほど「超不機嫌な父の顔」を見るのが苦痛だったのである。家族のメンバーの表情や感情は、他のメンバーになみなみならぬ影響を与えると思う。一人、不機嫌で感情を外に向け爆発させる人がいると、家族は皆その「暴風雨」に曝され、見えない傷を受ける。それは毎日、毎年、ずーっと続くのだ。

 

私は今でも「安定した平和な家庭生活」というものに完全に慣れていない。独立するまで、寂しさ、苦痛や不安が「常態」だったので、それがない生活というものをどう受け止めたらいいのか分からないのだ。「こんな幸福・平和は長く続かないのではないか」とドキドキし、何か悪いことが起こると「そう、人生ってこういうものだ」とどこか安心したりするのである。

 

父と手をつないだり、肩車をされたり、抱擁されたり、などということはまったく記憶にない(もしそのようなことがあったとしても、幼児の頃であろう。)父に触れようと思ったことは物心ついてからほとんどない。彼は私にとって恐れの対象でしかなかったからだ。

 

17歳の時に、母方の祖父が亡くなり、その葬儀の帰りに電車の中で、たまたま父の隣に座ってしまい腕が接触したことがある。正直、ぞっとしてしまい、(速く駅につかないか)とばかり願ったことを思い出す。

 

そのため、父が会社を引退して母への態度が和らぎ、ニコニコするようになっても、私は「人間の本性はそんなに変わらない」と心に鎧をつけ、彼との接触は最低限に保ってきた

 

数年前に、父は脳梗塞に倒れた。父が母や看護の人々、医師たちに「本当にありがとう」と柔和な表情で接する様子を見て、びっくりしてしまった。病院では誰もが「本当に優しいお父さん、旦那さんですね」と口にするので、(これも脳梗塞の後遺症!?)と疑ってしまったりした。

 

弱い犬が他の犬たちに歯を剥き、吠え立てるように、父も自分の弱さや自己嫌悪を他を攻撃することで隠していたのだろう。その鎧がすべて剥がされた時、彼自身のvulnerbleで善良な部分がやっと顔を出したのだ。

 

父が死ぬ数ヶ月前に、私は父の手を(40年ぶりに)握りさすった。なぜか心からそうしたくなり、自然とそうしたのだ。2回目の誤嚥性肺炎を起こした後、医師と相談の上で経管栄養のチューブが父の鼻から抜かれた。本人も家族もそれでほっとした。残された時間は1ヶ月余りと分かっていたが。

 

エンゼルケアを受け、霊安室に置かれた父の顔はとてもいい笑顔だった。私が見た中で最高の柔和な笑顔をたたえていた。顔を触るととても冷たかった。「すみません、お口が開いてしまうので、白い布でお顔を巻かせてもらいました」と看護士さんが言った。「まるでおたふく風邪にかかった人みたい」と私が冗談を言うと、母は泣きながら笑った。


不謹慎かとも思ったが、思わず携帯でその顔を撮影した。ずっとこの笑顔を忘れずに痛かったからだ。「お父さん、あちらの世界でゆっくりしてね」と語りかけつつ、「こんな笑顔を子供の時も見たかったよ」と心の中で呟いた。